仕事が忙しくなってきて、しかもガーデニング・シーズンも終わって、これからブログの更新頻度が減ってくるんじゃないかと思います。
なので久しぶりに週末の更新。
毎日楽しみにしているほぼ日でまた素敵なコンテンツが始まっていました。
人間国宝の染織作家、随筆家の志村ふくみさんについての特集。
ほぼ日は最近、TOBICHIという場所を得て、そこでいろいろなイベントとかをやっているのだけれど、(残念ながら週末で終わってしまったのだけれど)そこでの志村ふくみさんの展覧会にあわせてのコンテンツ。
志村ふくみさんについては名前は知っていたし、興味もあったのだけれど、今までちゃんと調べたりしていなかった。
でもこのほぼ日のページの中で紹介されていた動画が素晴らしくて。
なぜかブログにYouTubeのヴィデオを貼り付けたくても、そのページはあるのに、アドレス入力してもプログラムがページが見つからないというので、ほぼ日のページをここにリンクしておきますね。
ここでふくみさんがおっしゃっていた、自然が作り出す色について、すごく共感できました。
それにふくみさんと娘さんでいっしょに染織をされている洋子さん、お二人の植物をとても身近に、そして大切に思っていられる様子も素敵で。
本当に植物に、自然に、いつも近くにいる人ならではの言葉、というか。
それで週末、プラスの気温だったので、また庭へ。
もうお花は咲いていないけれど、まだ緑も見えるし、枯れた植物の姿もなんだかとても愛おしく、その気持ちはこの動画を見たことで、より膨らんだので。
ガーデニングをやっていると、「緑色」というのは、一色ではなく、本当にさまざまな緑色があることに気がつきますよね。

パセリのこんな元気で明るい緑もあれば

ラムズ・イヤーのシルバーがかった緑もある。

アジュガの紫がかったこんな緑もあるし、


他にもいろいろな「緑色」が自然には存在する。



今、私はガーデニングにはまっているけれど、もともとは花屋でバイトしていたとき、いろんな花や植物の色や形をみて「すごいなあ」と思ったのが、そもそも植物に興味を持ったきっかけだったと今は思う。
もちろん、花屋で扱われているものや、ガーデニング用に売られているものは、園芸として鑑賞するものとしてずいぶん人の手が入って改良されたものだとは思うけれど、でもそれでもやっぱり自然の一部であって。
ペレニアルなど、毎年見ているのに、見るたびに「わあ、すごいな、きれいだな」と見入ってしまう、自然の美しさ。
そして緑色だけでなく、自然にはそれはそれはたくさんの茶色も存在している。

たとえば、さくらんぼの木のこんな茶。
樹皮の表情もじっと見つめていると、ほんとうに面白い。

西洋ニワトコの樹皮はもっとごつごつした感じ。
茶色の感じもやっぱりさくらんぼの木のとはまた違う。
トロントの冬は長いので、枯れた花をそのまま残しておいて、種を鳥たちの食料として提供したり、雪景色の中に浮かび上がる枯れ姿のシルエットを楽しんだりする。
その枯れた植物たちの、雨風にさらされて茶色になった姿も、私は「美しい」と思う。




ガーデニングというと、どうしても「花を愛でる」というところが注目されやすいけれども、花が見られる時期というのは1年のうちで本当に短く、あっという間。
ほとんどは緑と茶色の時間だったりしますよね。
でも、私はその緑も茶色も好きです。
新芽にわくわくしたり、枯れ色には「お疲れ様」と思いながらも、「冬の間もよろしくね」と思う。


枯れてはいても、それはそれで素敵な景色を作ってくれるのだから。


他の人から見たら、「枯れたこんな茶色はみすぼらしい」と思われる景色かもしれない。
でも私には、このガーデニングシーズンを頑張って、その後枯れていった茶色も、とても愛おしく感じる。

やっぱり植物ってすごいな、いいな、と花の咲いていないこの時期でも、そう思う。

私が花屋でバイトしていたところから、今趣味としてガーデニングをしているけれど、私はフラワーアレンジメントとかより、やっぱり育てるというところ、庭を作るというプロセスが好きなんだなあ、と思う。

フラワー・アレンジメントは、確かにきれいだし、かわいい。
でも、切花というのは、それはそれは儚い。
それがいい、というのもわかる。
でも、私はやっぱり芽が出て、育っていって、花が咲いたり、実がなったり、種ができて枯れていく、というその成長を見ていく全体が好きで。
ただきれいなだけの一瞬を切り取ったようなものは、なんだか表面的すぎるように、今の私には感じる。

もちろん、花屋での経験から、切花として人の手に渡るまでいろんな手間暇がかかっているのもしっているけれど。
でも切花は枯れてしまったら捨ててしまうわけで・・・
ガーデニングのよさは枯れても、まだその続き(来年また芽吹くとか、種ができるとか)があるからいいですよね。
ただきれいというだけのものにそれほど興味がいかないのは、やっぱり年取ってきた証拠なのかしら(笑)。
でも、幼い姿も、きれいな姿も、そして老いていった姿も、その時々の姿をいいな、と思えたらいいよな、と思う。
だって、時は一時ですら止まってくれないのだから。

やっぱり植物は、私にいろんなことを教えてくれる。
***
ひとつの動画から、いろんなことを思って、長々と書いてしまいました。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

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なので久しぶりに週末の更新。
毎日楽しみにしているほぼ日でまた素敵なコンテンツが始まっていました。
人間国宝の染織作家、随筆家の志村ふくみさんについての特集。
ほぼ日は最近、TOBICHIという場所を得て、そこでいろいろなイベントとかをやっているのだけれど、(残念ながら週末で終わってしまったのだけれど)そこでの志村ふくみさんの展覧会にあわせてのコンテンツ。
志村ふくみさんについては名前は知っていたし、興味もあったのだけれど、今までちゃんと調べたりしていなかった。
でもこのほぼ日のページの中で紹介されていた動画が素晴らしくて。
なぜかブログにYouTubeのヴィデオを貼り付けたくても、そのページはあるのに、アドレス入力してもプログラムがページが見つからないというので、ほぼ日のページをここにリンクしておきますね。
ここでふくみさんがおっしゃっていた、自然が作り出す色について、すごく共感できました。
それにふくみさんと娘さんでいっしょに染織をされている洋子さん、お二人の植物をとても身近に、そして大切に思っていられる様子も素敵で。
本当に植物に、自然に、いつも近くにいる人ならではの言葉、というか。
それで週末、プラスの気温だったので、また庭へ。
もうお花は咲いていないけれど、まだ緑も見えるし、枯れた植物の姿もなんだかとても愛おしく、その気持ちはこの動画を見たことで、より膨らんだので。
ガーデニングをやっていると、「緑色」というのは、一色ではなく、本当にさまざまな緑色があることに気がつきますよね。

パセリのこんな元気で明るい緑もあれば

ラムズ・イヤーのシルバーがかった緑もある。

アジュガの紫がかったこんな緑もあるし、


他にもいろいろな「緑色」が自然には存在する。



今、私はガーデニングにはまっているけれど、もともとは花屋でバイトしていたとき、いろんな花や植物の色や形をみて「すごいなあ」と思ったのが、そもそも植物に興味を持ったきっかけだったと今は思う。
もちろん、花屋で扱われているものや、ガーデニング用に売られているものは、園芸として鑑賞するものとしてずいぶん人の手が入って改良されたものだとは思うけれど、でもそれでもやっぱり自然の一部であって。
ペレニアルなど、毎年見ているのに、見るたびに「わあ、すごいな、きれいだな」と見入ってしまう、自然の美しさ。
そして緑色だけでなく、自然にはそれはそれはたくさんの茶色も存在している。

たとえば、さくらんぼの木のこんな茶。
樹皮の表情もじっと見つめていると、ほんとうに面白い。

西洋ニワトコの樹皮はもっとごつごつした感じ。
茶色の感じもやっぱりさくらんぼの木のとはまた違う。
トロントの冬は長いので、枯れた花をそのまま残しておいて、種を鳥たちの食料として提供したり、雪景色の中に浮かび上がる枯れ姿のシルエットを楽しんだりする。
その枯れた植物たちの、雨風にさらされて茶色になった姿も、私は「美しい」と思う。




ガーデニングというと、どうしても「花を愛でる」というところが注目されやすいけれども、花が見られる時期というのは1年のうちで本当に短く、あっという間。
ほとんどは緑と茶色の時間だったりしますよね。
でも、私はその緑も茶色も好きです。
新芽にわくわくしたり、枯れ色には「お疲れ様」と思いながらも、「冬の間もよろしくね」と思う。


枯れてはいても、それはそれで素敵な景色を作ってくれるのだから。


他の人から見たら、「枯れたこんな茶色はみすぼらしい」と思われる景色かもしれない。
でも私には、このガーデニングシーズンを頑張って、その後枯れていった茶色も、とても愛おしく感じる。

やっぱり植物ってすごいな、いいな、と花の咲いていないこの時期でも、そう思う。

私が花屋でバイトしていたところから、今趣味としてガーデニングをしているけれど、私はフラワーアレンジメントとかより、やっぱり育てるというところ、庭を作るというプロセスが好きなんだなあ、と思う。

フラワー・アレンジメントは、確かにきれいだし、かわいい。
でも、切花というのは、それはそれは儚い。
それがいい、というのもわかる。
でも、私はやっぱり芽が出て、育っていって、花が咲いたり、実がなったり、種ができて枯れていく、というその成長を見ていく全体が好きで。
ただきれいなだけの一瞬を切り取ったようなものは、なんだか表面的すぎるように、今の私には感じる。

もちろん、花屋での経験から、切花として人の手に渡るまでいろんな手間暇がかかっているのもしっているけれど。
でも切花は枯れてしまったら捨ててしまうわけで・・・
ガーデニングのよさは枯れても、まだその続き(来年また芽吹くとか、種ができるとか)があるからいいですよね。
ただきれいというだけのものにそれほど興味がいかないのは、やっぱり年取ってきた証拠なのかしら(笑)。
でも、幼い姿も、きれいな姿も、そして老いていった姿も、その時々の姿をいいな、と思えたらいいよな、と思う。
だって、時は一時ですら止まってくれないのだから。

やっぱり植物は、私にいろんなことを教えてくれる。
***
ひとつの動画から、いろんなことを思って、長々と書いてしまいました。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。

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今日のブログとっても共感できました。
私も常々同じことを考えています。植物も人間も生まれてから最盛期(?)は、もうその存在だけで十分美しいけれども、その後の美しさもまた特別に感じます。(あはは、これは私も年をとってきた証拠なのかしら?)
枯れたり腐ったリしたあとも、自然界のものは全てまた土へもどり再生するではないですか?その土ですら美しいと思ってしまいますよ(爆)